津城 2024.11.25
11月25日朝、津城跡を訪れました。宿泊地の津駅前から三重交通バスに乗り南方向へ、三重会館前で下車。バス停近くの津センターパレス地下1階に津城本丸・西の丸の復元模型があり見たかったのですが、早朝は閉まっていました。
①道路を横断すると百五銀行横に発掘調査で確認された内堀外周側の石垣が移設展示されています。石材サイズは本丸石垣とは異なって大小まちまちです。
西方向に少し歩くと本丸北東隅石垣が見えてきます。前日、観光案内所で入手した「津城石垣めぐりマップ」をガイドに歩いてみます。
②本丸北東隅(丑寅三重櫓台)。反りのない直線的石垣で隅角部はきれいな算木積みです(藤堂高虎城主以降の石垣)。本丸・西の丸は、かつては幅の広い内堀で囲まれていましたが、大半が埋め立てられて北側と西側にわずかに残るだけです。
③本丸東鉄(くろがね)門跡。右折れの枡形虎口でかつては多門櫓・櫓門で囲まれていましたが、左側・前方の石垣はかなり失われています。かつては、この門から土橋で東の丸に繋がっていました。なお、右側の城郭風の建物は1958年に戦後復興のシンボルとして建設されたもので、本来、多門櫓が建っていた場所です。
④本丸南東隅(月見櫓台)。1944年の東南海地震で崩壊し、戦後積み直されたものの原状回復ではなくモルタル注入もされており、隅角部も非算木積みになってしまったようです。
⑤本丸埋門跡。本丸南からの脱出口として1639年に造られたため、西(画面左)側の石垣はきれいな打込み接ぎ、東(右)側の石垣は野面積み(藤堂高虎城主以前の石垣)と違いがよくわかります。この門の先には内堀前に幅4mの犬走が東方向に続いていたそうです。
⑥天守台南面。手前が大天守台、後が小天守台、奥が埋門跡です。大天守台・小天守台の隅角部は完成された算木積みにはなっておらず、藤堂高虎城主以前の石垣のようです。
⑦西の丸入口。右折れの枡形虎口で、このあたりの石垣はきれいな打込み接ぎで隅角部もきれいな算木積みです。なお、土橋は近代のもので江戸時代は木橋でした。
⑧本丸西鉄門跡。西の丸から本丸への入口で左折れの枡形虎口でしたが、右側・前方の石垣は失われています。この門は、かつては土橋で西の丸と繋がっていましたが、現在、土橋の両側は埋め立てられて日本庭園になっています。
⑨天守台北東隅。現在、天守台には上れません。かつては手前に天守台取付多門櫓台があったようです。隅角部の完成された算木積みは寛文年間(1661~72年)に改修されたものです。
東鉄門跡から出て本丸北側内堀をまわります。
⑩本丸北西隅(戌亥三重櫓台)。こちらの隅角部もきれいな算木積みです。
⑪内堀の北西端から西の丸・本丸を撮影。堀幅は往時より狭くはなっていますが、このあたりには水堀で囲まれていた雰囲気が残っています。
このあと、次の目的地:伊賀上野城跡をめざして近鉄名古屋線津新町駅に向かいます。
[メモ]津市観光協会「津城・城下町探検」、津市「津城かわら版」などによりますと、津城は、安濃(あのう)川下流の低湿地に、織田信長の伊勢国侵攻にともない安濃郡に配置されていた弟の信包(のぶかね)が支配の拠点として1580年に築城、天守も築いたとされます(当時は安濃津(あのつ)城と呼ばれた)。その後、城主には1595年に富田氏、1608年には藤堂高虎が入り1611年から大改修を行い、現在残る姿となりました。明治になって建物は払下げ撤去され堀も大半が埋め立てられました。2005年に表面遺構の残っている本丸・西の丸が県史跡に指定されました。なお、近年、1639年埋門設置から1662年大火までの期間に天守など詳細に描かれた絵図(正保城絵図の下絵と考えられる)が発見され、三重大学藤田達生教授によって発表されました。
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